数々の挑戦を積み重ねてきた西村組。
そのはじまりから現在に至るまでの
軌跡を紹介します。
西村組創立(西村幸太郎の個人創業)
乗合バス事業で住民の足を確保
製粉工場の共同経営等で時局乗切りをはかる
網走建設業協会が発足
西村幸太郎が網走建設業協会理事へ就任
馬車による郵便輸送「郵便馬車」をひいていた当時19歳の幸太郎は、鉱石類の輸送需要があることを知り馬搬業を始める。その猛烈な働きぶりと誠実さが近隣住民や仕事関係者のあいだで評判となり、食糧や衣料の運搬などあらたな仕事を次々に獲得した。その高い評判が、西村組設立のきっかけの1つとなる。
道内建設業界で本格化する昭和30年代を待たずに昭和24年から機械化を推進した。なかでもブルドーザーの導入は道内初だった。この決断によって土砂、砕石の運搬効率が飛躍的に上昇。「無謀だ」との声もあがった積極投資が、のちの事業拡大に寄与することになる。
網走管内初となるD4ブルドーザーの購入
網走管内初となるD8ブルドーザーの購入
企業形態改変への気運が高まりつつあった時代。発注する官公庁側は安心して事業をゆだねられる堅実な業者を求め、指名するための選考基準も個人企業より会社法人を重視する傾向があったため、西村組は法人化を決断した。事務所は幸太郎宅の一階。社員数は27人だった。
推進直後は先駆けとして注目を浴びた機械化だったが、この時点ではまだ最新鋭の設備投資に見合う工事が少なかったため、株式会社化の直後にもかかわらず財政危機に陥った。しかし、徹底した経費削減や官公庁からの「西村組をつぶしてはいけない」という激励、成長する日本経済の後押しを力に、わずか2年で実質的な経営再建を達成。その後、設備投資に見合った工事の受注を増やしていく。
北海道労働基準局長表彰を受賞
海底ボーリング台船を開発し、砕岩浚渫工事の能率が飛躍的に向上
再び同じような危機に陥らないためには「社員の精神的なよりどころを明確にする」ことが必要だと判断し、いまなお続く社是と社訓を制定した。社是には幸太郎がモットーにしている「誠実」を。社訓には危機を乗り越えるにあたって重要だと痛感した「和」を採用した。
政府の継続工事予算の減額で予想売上高が減少していた。そこで他分野進出による事業拡大など新たな経営方針を模索したが、最終的には一般土木事業を軸とする方針を継続しつつ、伸長していた港湾土木事業の拡大を主目標に設定することに決めた。また同時期から技術員の能力向上にも注力。これは後に「技術の西村」と呼ばれるきっかけとなる。
西村幸太郎が北海道建設業協会理事へ就任
初の大型クレーン船となる第5西村号を建造
西村組本社新社屋の落成
西村組創業40周年記念事業
紋別港事業所を紋別営業所へ昇格
西村幸太郎が会長へ就任、西村幸一が社長へ就任
西村幸太郎が勲五等瑞宝章叙勲
紋別営業所の新社屋落成
創業者である西村幸太郎会長が死去
札幌営業所を開設
2100t型フローティングドック FD-2101を建造
150 t 吊大型クレーン船 第10西村号を建造
のちにスタンダードとなる東北からの労務者導入。単年売上6億円超という並外れた好業績。管内の建設業界をけん引した幸太郎はその業績を評価され、昭和13年に役所からの推薦で網走建設業協会の前身である網走地方請負人組合に入会し、昭和49年には現協会の会長に就任した。役所の推薦で入会が決まったのは同協会70年以上の歴史の中で幸太郎ただ1人。平成をまたぎ、令和3年となった現在でもそれに続く者は出ていない。会長就任の翌年、西村組の社長職退任に合わせて同会長の退任を表明するも、総会にて再任された。現職社長を選任する慣習を覆した事実から、同業者からの支持の厚さがうかがえる。
道央、道南への進出を目指して「札幌営業所」を開設し、企画営業部門を新設した。また“200海里時代”を迎えた日本が「獲る漁業」から「育てる漁業」への指向を強めつつあることへの対応でもあった。その営業所開設と部門の新設を伝えるためだけに「緊急社員会議」を開くほど、西村組にとって大きな決断だった。
札幌営業所を支店へ昇格
創業50周年、会社設立30周年記念事業実施
紋別港第2防波堤工事において北海道開発局表彰を受賞
5000 t 型フローティングドック FD-5000を建造
大型砕岩グラブ浚渫船 第25西村号を建造
釧路営業所を開設
紋別営業所を支店へ昇格
大型クレーン船 第35西村号を建造
研究開発室を設置
ふゆトピア・フェア(旭川)に初出展。
以後、北海道開催時には継続して出展
150 t 吊クレーン船 第26西村号を建造
漁港建設工事において水産庁長官表彰を受賞
西村幸一が網走建設業協会長へ就任
西村幸一が北海道建設業協会理事へ就任
札幌西村ビル(札幌支店)、札幌誠和寮を新築
損害額が20億円を超えたサロマ湖の流氷被害をうけて浮体式の防氷施設を開発するプロジェクトが始まった。4年かけてつくられ「アイスブーム」と名付けられた同施設は、サロマ湖における養殖施設への流氷被害を根絶させた。1998年6月30日には社団法人全日本建設技術協会より全建賞を受賞し、名実ともに西村組の歴史に残る大きな功績となった。
紋別港の浚渫を始めるにあたって新造した。大きさ、クレーン能力ともに関東以北最大級であった同船は西村組の工事効率を飛躍的に高め、利益を押し上げ、財務的な土台をつくるきっかけになった。現在は主に砕岩工事で活躍している。
創業60周年、会社設立40周年
西村幸一が建設功労による大臣表彰を受賞
西村幸一が黄綬褒章を受章
西村幸一が北海道建設業協会副会長へ就任
ポンプ浚渫船 第37西村号を建造
元稲府漁港建設工事において北海道開発局優良工事施工業者表彰を受賞
西村幸一が会長へ就任、西村幸浩が社長へ就任
ISO9001、ISO14001認証登録
フローティングドックFD-5000を6100 t 型へ改造
サハリンプロジェクトへ参画。ホルムスク漁港浚渫工事に携わる
グラブ浚渫船 第38西村号を建造
押船兼曳船 第56西村丸を建造
創業70周年、会社設立50周年
スパット式バックホー浚渫船兼クローラークレーン付台船 第27西村号を建造
US-1グアム港湾建設工事(FD-6100)
政権交代を果たした民主党が、従来の自民党政権が大型建築物(コンクリート)に巨額の税金をあてていたことに対して抜本的に予算を組み替えた。これにより西村組の受注量は減少。その影響で定期的に行っていた採用活動もストップせざるを得なくなった。公共工事縮減の方針を唐突に突きつけられたこと、なにより仲間たちの仕事にかけてきた誇りや思いを傷つけられたことに対して抵抗の意思を示すため、コーポレートカラーをコンクリートを表すグレーに設定した。
グラブ浚渫船兼350 t 吊重機船 第75西村号を建造
ウトロ漁港人工地盤基礎地中梁建設工事において北海道開発局優良工事等表彰を受賞
第76西村号を建造
安国太陽光発電所建設
創業80周年、会社設立60周年
起重機船兼グラブ浚渫船 第77西村号を建造
天皇陛下より紺綬褒章を受章
西村幸浩が全日本漁港建設協会 北海道支部支部長へ就任
西村幸一会長が死去
西村幸浩が北海道水産土木協会会長へ就任
7,700 t 積フローティングドック NOA-7700建造
採用の基準を性別ではなく能力や適性に切り替え、初の女性技術者を採用した。それまでサポート役を担ってもらうことが多かった女性を技術者に登用することは建設業界全体を見渡しても珍しい決断だった。この決断を機に女性社員が増え、活躍の場が大きく広がった。
旧態依然とした体質から脱却するために「誰もが知っている、誰も見たことがない建設会社」というビジョンを策定した。建設業界に新たな風を吹き込む決意が込められている。