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「一番でいたい」「負けたくない」「怒られるなんてもってのほか」その口から飛び出すアツい言葉の数々は紋別が極寒の地であることを忘れさせる。どれだけ難しい工事でも二つ返事で請け負って竣工に導く有言実行男。「北海道の重要拠点ですから」と紋別を守るために防波堤建設工事を先頭で引っ張った。帰宅後は工事に必要な手作業の練習を重ねるなど、仕事に人生を捧げている。
「一番でいたい」「負けたくない」「怒られるなんてもってのほか」
その口から飛び出すアツい言葉の数々は紋別が極寒の地である
ことを忘れさせる。どれだけ難しい工事でも二つ返事で請け負って
竣工に導く有言実行男。「北海道の重要拠点ですから」と紋別
を守るために防波堤建設工事を先頭で引っ張った。帰宅後は工事に
必要な手作業の練習を重ねるなど、仕事に人生を捧げている。
時は戦後間もない昭和22年。埋め立て地造成工事で西村組は紋別港と出会った。
同24年には「紋別出張所」を開設。以来、港湾の拡張整備、大型船舶の入港を可能にするための浚渫や岩盤破砕など、戦後復興の道を共に歩むかのように数多くの工事を請け負った。そして昭和40年代以降、防波堤の延長工事を任されることになった。
オイルショックの直後で日本経済が低迷していた昭和49年。ディッパー浚渫船や起重機船の導入をはじめとする大型の設備投資を決断した。昭和50年代以降は設備投資をさらに加速。そのすべては紋別港の港湾工事、なかでも北防波堤、第二防波堤の延長工事に対応するための措置だった。一種の賭けともいえる決断だったが、後の西村組の繁栄につながることになる。
紋別港には漁船だけではなく輸出入商船や観光客船などが停泊する。そんな経済的な重要拠点であるにもかかわらず、外洋から侵入してくる波の影響で静隠度が低く、停泊している船舶の損傷や、漁師、観光客らのケガのリスクを抱えていた。防波堤の延長工事はそれらのリスクを軽減するためのもの。設備投資で手に入れた作業船で施工を進めていった。
防波堤を延長した港内の静隠度は上昇。
停泊する船とそれを利用する人の安全を確保しただけではなく、漁船が漁に出られる回数が増えたことで漁獲量は上昇した。昭和60年には第二防波堤工事において特に優秀で模範となる工事を施工した企業と技術者を称える「北海道開発局表彰」を受賞。西村組による紋別港の港湾工事は、現在も続いている。
防波堤の延長工事が行われる前までは、港内の波が高く、船が傷付いたり、漁に出られなかったりしていました。でも、防波堤が延長されるたびにその波は弱くなっていったので、心配はなくなりましたし、漁に出られる回数が増えて水揚げ量も増えました。あと、波が弱くなったおかげで荷揚げする際の危険もなくなり、静穏度も高まって紋別港にはロシアやベトナムといった海外から大型の貨物船がたくさん入港するようになりました。本当に感謝しています。
地元漁師 大澤眞人さん